2023年8月29日のハイパー縁側@淀屋橋は、江本雅朗さんをゲストにお迎えしました!
テーマは 「Spirits of OMS 〜人と場と時代の混交〜」。

1985年から2003年まで、大阪ガスが設置・運営していた複合文化施設「扇町ミュージアムスクエア(OMS)」。現在は人事部に所属する江本さんですが、1989年から10年間、OMSでマネジャーを務めていました。
ビールは苦手とのことで、バナナシェイク(ミルク少なめ)と、OMS10周年記念誌、2003年閉館時に出版された本の2冊を手に、当時の様子を語って頂きます。

大阪ガスは当時、製造所・ガバナー用地・事務所ビルなど不動産をたくさん所有していましたが、不要になったり古くなったりした為、遊休不動産となっていました。OMSを開館するきっかけも、大阪ガスがもつ遊休不動産の暫定利用が目的でした。

大阪市の北半分を管轄する営業拠点であった北支社ビルが、十三に移転する事が決定。梅田から歩いて行けるという好立地で、800坪のまとまった土地が空くことに。いずれは本格的な開発をするつもりですが、すぐにはできないということで、約1億円の改装費をかけ、3年という期間の暫定利用の予定でOMSは始まりました。

1階には、メインの小劇場・映画館・雑貨店・カフェレストラン・ギャラリーを備え、2・3階には、劇団の稽古場・『ぴあ』の関西支社・事務所があるという複合施設に改装。このような複合施設を始めたのは、OMSが日本で最初と言われているそう。

劇場・映画館が単独であるのではなく、ビフォアシアター・アフターシアターとして、芝居を観る前や後に、芝居について話しながら、食事やお茶・ショッピングを楽しむ時間をもてる「全体的な時間消費」をコンセプトとしていました。

OMSが開館した1985年の当時、江本さんは製造所に勤務していて、OMSについてあまり知らなかったと、言います。次のチャレンジを見据えていた江本さんは、社内の「新分野チャレンジ制度」を利用して「都市開発のテーマに携わりたい」と、手をあげます。なので、OMSに行くつもりは全くなかったそう。

ただ、映画は好きだったのと、学生の頃にテレビ局でのアルバイト経験もあったので、1989年にOMSへ赴任する事になると、夜でも「おはようございます」の世界にすぐに馴染めた、と話します。当時の上司は、江本さんのそんな素質も見抜いていて、「君は絶対に染まるから、大阪ガスに居場所はなくなるので覚悟して行ってきなさい。」と、OMSに送り出されました。「半分当たっていて、半分当たっていない。」と、江本さんは笑います。

開館から5年目のOMSは、関西の若者文化の発信拠点としての地位を確立していました。先輩方の草創期の苦労は知らないまま、とても勢いのあった時期にバトンを受け取った江本さん。しかし、暫定利用予定の3年はとっくに過ぎていたので、初代支配人から、「ソフトランディングさせ、うまいこと終わらせる事が仕事だ」と、任務を伝えられます。

ただ、時代の勢いがそれを上回り、終わらせるどころかむしろ面白い事を仕掛ける方向に向かいます。時代はバブル期。各企業が文化芸術への支援をし、小劇場やメセナブームが起こり、やめるにやめられない状況だった、と言います。予算もあり、知恵もある。 速度が増していき、劇団も成長を遂げていったと振り返ります。

OMSには、現在もドラマや映画で欠かせないメンバーが揃う『劇団☆新感線』の稽古場があり、情報発信の総本山である『ぴあ』の関西支社がありました。当時、インターネットはなかったので、紙媒体の雑誌が情報源。情報宣伝や情報提供をするのに、劇団員・映画関係者が日常的に出入りしていた、と言います。

他にも、テレビ関係者の出入りもあり、深夜番組に小劇場の役者が登用されるということも。敷地内で、普段なら会わない人同士が出会える。自然と、“出会いの場”として機能していました。

また、施設の裏手には駐車場があり、出番待ちの役者さんが勝手にキャッチボールをしたりしてリラックスしていました。OMSが新築ビルではなく、古い建物を改装したものだった為、少々汚れても気になりません。

使い勝手の良い空き地のようなスペースが、表現者にとって居心地がよかったのでは、と江本さんは感じています。このような“余白”のある劇場はなかなかないので、東京から来阪する劇団員も満足して帰って行ったそう。“余白だらけ”なのが良かった、と江本さんは笑顔で語ります。

OMSが成功した秘訣は、運営を大阪ガスの人間がするのではなく、最初からプロフェッショナルに任せた事、と言います。江本さんは、演技ができるわけでも、演出ができるわけでもありません。江本さんの役割は「表現者の方と大阪ガスの通訳」、と言い切ります。いかにうまいこと言って、企画予算をとってくるのか、という事に尽力します。

その考え方の上にバブル期が重なり、メセナブーム・小劇場ブームが到来。そして、劇場があり、『ぴあ』があり、リラックスできる場があり、ひとつの施設の中で様々な人との出会いが生まれる、まさに「人と場と時代が混交していた」、と語ります。

“愛される劇場”

また、運営を任せる上で江本さんが意識していた事は、同じ目線で話す事。大阪ガス側は大家として「使わせてあげている」ではなく、「使って頂いている」という感覚。劇場は稼働していなければ、ただの箱。稼働率を上げる為には、“愛される劇場”を作る必要がある。江本さん・役者・スタッフのみんなと共鳴して、いいものを作っていく事を大切にし、だんだんと実現できた、と言います。そして、スタッフが代わっても、その想いは引き継がれていきました。

ただ、上層部からは「OMSを運営する事で、ガスの売り上げはあがるのか」という指摘もあったそう。そこで、江本さんは『企業メセナ賞』を狙って取りに行き、1993年に獲得。すると、社長も現地視察に来てくれました。

そんな戦略もたてながら、暫定利用は18年間続きました。江本さんは、マネジャー時代を思い返すと「毎日が学園祭のようで、むちゃくちゃ面白かった」と、清々しく語ります。予算もあり、賞もいただき、今も続く繋がりもできた、と話します。

「破格の値段で貸していただき、ありがとうございました!」と、当時の同志である『ぴあ関西版』の編集長だった石原卓さんもご登壇。幽霊話や有名アーティストの逸話などなど、当時を振り返り、盛り上がります。「江本さんがもし真面目な大阪ガスの社員だったら、出禁になった表現者もいたかも」と、打ち明ける場面も。

自分自身も楽しみ、何でも面白い方がいいと考える江本さん。OMSに関しても、先入観を持たず、面白がって、様々な要素を入れていく事で奇跡的な出会いや新しいものが生まれ、映画界・音楽界・美術界などで活躍する才能を輩出できた、と語ります。

江本さんは、この「GAS STAND」にOMSからの繋がりを感じています。後輩たちが、このような発露の場を創ってくれている事が嬉しいし、頼もしい。今日のように、人が集い賑わいが生じている事が、まちづくりのヒントになると考えています。

いずれ、「GAS STAND」は無くなってしまうけれど、開発中の33階建てのビルでも、小綺麗ではなくあえて汚れてもいいところ、“わけのわからない場”を一角に創ってもらえたら、と提案します。

裏話を盛り込みながら軽やかに語る江本さんのトークに引き込まれ、当時の熱量・勢いが伝わってきました。
人と場と時代が混交していた情景や、「GAS STAND」という場をきっかけに、OMSスピリッツをたくさんの人達と共有する事で、その想いが次に繋がっていく。とても貴重な時間となりました!

【江本 雅朗(えもと まさあき)】
大阪ガス株式会社 人事部 / 元 扇町ミュージアムスクエア マネジャー
1984年 大阪ガス入社。
1989年7月から1999年10月まで同社グループが設置・運営していた複合文化施設「扇町ミュージアムスクエア」マネジャーを務める。その間、現在も継続する「OMS戯曲賞」の創設、神戸アートビレッジセンターの立ち上げにも携わった。
現在は、キャリア研修・面談やOB会事務局長等を担当。
プロ野球クイズ王として以前は、「野球狂のネタ」(KTV)等テレビ番組やトークイベントにもそこそこ出演していた。
大阪ガス株式会社
OMS戯曲賞