2021年10月8日のハイパー縁側@天満橋は、若林正博さん、北川幸宏さんをゲストにお迎えしました!
テーマは、「伏見の日本酒を歴史から紐解く」。

今回は、伏見エリアをフィールドに活躍されているお2人に登壇していただきました!

白いシャツと丸渕メガネがとてもお似合いの若林さんは、京都府立京都学・歴彩館にて行政文書を担当されています。また、伏見の文化や歴史にも精通していて、本も出版されています。

『富翁』の迫力ある前掛けをテーブルにかけ、法被姿で登場された北川さんは、伏見で360年続く北川本家14代目当主を務めています。

お2人は、同志社大学の同じゼミの先輩・後輩の関係で、当日は大学のOBや、伏見エリアで活動する仲間もたくさん駆けつけました。

まずは、なぜ若林さんが歴史の研究をするようになったのか、「歴史というよりも伏見が好きなんですよ。」と若林さんは切り出します。

伏見は歴史も深く日本酒も有名で、「伏見ってすごい!」と言われるけれど、「本当にそうなのか?」という疑問が若林さんの中で湧き、他の地域と比較したりする事で自ずと伏見の歴史を深掘りしていくようになりました。

若者にも自分の地域を好きになって、調べて発信してほしい、と話します。

この秋も、京阪シティモール天満橋にて3回目となる『うまいもんと伏見の酒祭り』が開催されました。「伏見のお酒を天満橋で販売する事は脈絡がない訳ではない、という事が歴史を遡ると分かる。」とお2人は話します。

江戸時代の古地図や写真等を見ながら、若林さんが詳しく解説して下さいました。
浮世絵にも残っている、江戸から京都を終点にした「東海道53次」は有名ですが、大阪を終点にした「東海道57次」では、伏見・淀・枚方・守口と宿が続いていたそう。

現在、この京阪電車が通っている場所は、昔は川だったと言います。天満橋と伏見は川で繋がり、物や人の移動が盛んで、この水運を使って伏見の酒も運ばれていたと話します。

その昔、伏見は城下町として栄えていました。伏見城も伏見を治めるというよりも、全国を治めるために築城され、全国の大名が集まり大名屋敷を構えていました。

それが安土桃山時代から江戸時代に移り、大名屋敷が立ち退くと次は川沿いを中心に宿場町として再生していきます。
その後、鳥羽伏見の戦いで街が焼けてしまい宿場町としても立ちいかなくなったところ、「伏見は水がいい」という事で様々な地域から蔵元が集まり、宿場町の跡地で日本酒造りが始まっていったそうです。

“伏見の特徴”

「城下町→宿場町→酒蔵」と形を変え、常に活気を保っているのが“伏見”という地域の大きな特徴だと若林さんは話します。

現在、京都伏見の日本酒はとても有名です。灘五郷のある兵庫県に次ぎ、京都府が2番目のシェアで15%ほどを占めていますが、そのうち99%は伏見で造られているそうです。

一般的に、水が綺麗な地域が日本酒の産地というイメージですが、伏見の酒造りが盛んになった1番の要素は、江戸時代の伏見が「人が集まる大きなまち」で日本酒の需要があったからだ、と北川さんは話します。

次の要素として、日本酒は1升瓶を造るのにその8倍の水が必要になります。その為、水質だけでなく水量も必要になってきますが、伏見は水量も豊富かつ水質もきれいだった為、美味しいお酒ができたそう。

このように「人が多く集まる大きなまち」「豊富な水量」「きれいな水質」、日本酒を造る3つの要素が備わっていた伏見だからこそ、宿場町から酒蔵にうまく転換して今に至ったのではと北川さんは話します。

また、伏見の酒蔵は宿場町の跡地に出来上がっていった経緯や、酒屋同士の仲が良く協力し合っていたという関係から、狭い範囲に集中しています。
「伏見の酒蔵巡りは歩いて廻るのがお勧めです。」とアドバイスも頂きました。

北川さんは、『富翁』や伏見の日本酒を呑んでもらいたい。
また、日本酒には日本の技術・歴史・文化が詰まっているので、ぜひ色々な日本酒を試してもらいたい、と熱い思いを語って頂きました!

日本酒は地域の歴史や文化を表現しているお酒で、学ぶことで一層美味しさが変わります。
「いつか伏見のまちと天満橋をつなぐツアーを開催しましょう!」と会は締めくくられました。

【若林 正博】
京都府立京都学・歴彩館 課長補佐
2011年より現職、学芸員、司書、認証アーキビストの資格を持つ。
伏見に関する著作は「伏見城跡の変遷 : 近世~現代」2020年『京都学・歴彩館紀要』第三号所収。
京都北山に位置する総合学習施設 京都学・歴彩館
【北川 幸宏】
伏見酒造組合 副理事長
京都・伏見で360年以上の歴史を持つ北川本家『富翁』14代蔵元。
生まれも育ちも伏見南浜学区、2007年7月 代表取締役に就任。
日本酒造組合中央会 需要開発委員会副委員長
株式会社北川本家